メンタルの限界(40代・管理職)

自分のこれまでと、これからを残す

【残しておきたい】希望の選択と愛情を持った行動

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 joseph kim(ジョセフ キムさん) 

TEDより写真引用 〜北朝鮮の失った家族と新たに恵まれた家族〜

http://www.ted.com/talks/joseph_kim_the_family_i_lost_in_north_korea_and_the_family_i_gained?language=ja

 

 

(Digital Castより本文全引用) http://digitalcast.jp/v/17170/

僕は 北朝鮮で生まれ 育ちました 僕の家族は常に貧困に苦しみましたが 僕はいつも愛され一番に世話されました 家族は姉が一人に 僕が唯一の息子だったからです

 

しかし 1994年に大飢饉が起こります 僕が4歳のときです 姉と僕は よく焚き木を探しに行きました 朝5時に出かけ 戻りは夜中でした 食べ物を探しては町を さ迷い歩きました 母親におんぶされた幼い子が ポテトチップスを食べているのを見て 盗もうと思ったのを覚えています

 

飢えは屈辱です飢えは絶望です お腹を空かせた子どもにとって政治や自由は無縁のことでした 9歳の誕生日のとき 両親は僕に― 何も食べ物を用意できなかった 子ども心に両親の― 沈痛な思いを感じました

 

北朝鮮では 当時100万人以上が餓死しました そして 2003年 僕が13歳のとき 父も 同じ道をたどりました 父が衰え 死んでいくのを目にしました 同じ年の ある日母が姿を消しました さらに姉が僕に伝えました お金を稼ぐために中国に渡り お金を貯め 食べ物を持ってすぐに戻ってくると 僕たちは それまで離れ離れになったことがなく 今後もずっと一緒に暮らすと思っていました 姉が旅立つとき 別れの抱擁さえしなかった 人生最大の過ちです でも永い別れになるなんて 僕は知りませんでした それ以来 母にも姉にも会っていません

 

突然 僕はホームレスの孤児になりました 日々の生活はとても厳しく また 単調でした 頭にあったのは ゴミ箱から埃まみれのパンを探すこと でも それだけでは生きられません 次第に 物乞いではやっていけないと分かり 闇市の売り場から食べ物を盗み始めました また時々 簡単な仕事をしては 食べ物を得ました 冬に2ヶ月の間炭鉱で働いたこともあります 地下33メートルの何の保安設備もない現場で 一日16時間も働きました よくあることでした 多くの孤児が こうして生き延びたのですまだ ましな方です

 

厳しい寒さや飢えの苦しみで 眠れないときは こう 思いました 翌朝になれば 姉が戻ってきて私を起こしてくれる 大好きな食べ物もある この思いがあったから僕は生きることができた 決して大それた希望ではない 普段はありえなくても 次のゴミ箱にはパンが― 見つかると信じる思いです そう思わなければもう何もできなくて ただ死ぬしかなかった 希望だけが 僕の命綱だったのです 毎日 自分に言い聞かせました どんな状況にあっても 生きなければならない

 

姉の帰りを待って3年が経ち 僕は 姉を探しに中国に行くことを決心しました このままでは 長く生き延びられないと思いました 危険な旅になるのは分かっていました いずれにせよ僕の命は危険にさらされています 父と同じように北朝鮮で餓死するかもしれない それなら せめて中国に逃れて よりよい人生を手に入れよう

 

多くの人は 見つからないように 夜に 中国国境を越えようとするのを知りました 北朝鮮国境警備隊はしばしば 無許可で越境する人たちを射殺します 中国兵は 北朝鮮人を 捕まえて送還します 送還者には厳しい罰が待っています 僕は 日中に動くことにしました 僕は子どもでしたから暗闇が怖かったのです それに すでに危険を冒していることは分かっていましたし 日中に越境しようとする人は少ないので 誰にも見られずに 渡れる可能性があると思いました

 

2006年2月15日に中国に渡りました 16歳でした 中国での生活は楽になると考えていました 食べ物がたくさんあり多くの人が― 手助けしてくれると思いました でも 北朝鮮よりも過酷な生活でした 自由がなかったからです 捕えられて送還されないか 常に恐れていました

 

奇跡的に 数ヶ月後 北朝鮮人向けに 秘密の隠れ家を 運営している人に出会い そこで住むようになりました 何年かぶりに普通に食事を取りました その年ある活動家の手助けにより 僕は 中国を出て難民として米国に渡りました

 

英語を全く知らずにアメリカに行ったのです でも 社会福祉指導員に高校に行くよう言われました 北朝鮮でさえ僕は落第生だったのに (笑) それに 小学校すら修了していません 覚えているのは毎日学校で喧嘩したこと 教科書と図書館は苦手でした 父は 僕に勉強させようと必死でしたが ちっとも効果はありませんでした あるとき 父はあきらめて言いました 「お前は もう私の息子ではない」 僕はまだ11歳か12歳で深く傷つきました それでも 僕の学習意欲は 父が亡くなるまで変わりませんでした ですから アメリカで 高校に行けと言われたときはすごくおかしかったです 中学校さえ行かなかったのです 僕は言われるままに高校に行くことにしました たいした努力もしませんでした

 

でも ある日家に戻ると 養母が 夕食に鶏手羽肉を料理していました 食べながらもうひとつ取ろうとして 皆に足りなくなるのに気づいて 取るのをやめました でも 自分のお皿を見ると 鶏手羽肉が置いてありました養父が自分のをくれたのです 僕はすごく嬉しかったです 隣に座っている父を見ました 父は何も言わずに 僕をとても優しく見つめていました そのとき 急に実の父親を思い出しました 養父の愛情こもった小さな振る舞いが 実の父親を思い出させたのです 実の父親は 空腹で飢え死にしそうでも 自分の食べ物を喜んで僕に分けてくれました 僕は息がつまりそうでしたアメリカではたくさん食べ物があるのに 父は飢死したのです その夜 思ったのは父に料理を作ってあげたかった そして 父のために他に何ができるか考えました 僕の答えはこうでした 一生懸命に勉強してアメリカで最高の教育を受け 彼の犠牲に敬意を示そうと

 

それから 真面目に授業を受けました 人生で初めてのことです 僕は 成績優秀で表彰され 高校の一学期から優秀者リストに載りました

 

(拍手)

 

鶏手羽肉が僕の人生を変えたんです (笑)

 

希望は 自分だけのもので 誰も与えられません 希望を持つことを選ばなければなりません 希望を自分のものにするのです 北朝鮮で私は希望を自分のものにしました 希望があったからアメリカに来れました でも アメリカで僕は何をするか困りました あふれんばかりの自由があったからです 僕の養父は あの夕食で指針を示して 僕を鼓舞し アメリカで生きる― 目的を教えてくれました

 

僕一人では できませんでした 希望があってもそれだけでは不十分です これまで たくさんの人が僕に手を差し伸べてくれました 北朝鮮人は 生きるために必死に戦っています 皆 生きるために懸命です 希望もあります でも 助けがなければ希望は叶えられません

 

これは 皆さんへのメッセージです 自分のために 希望を持ってください そして お互い助け合ってください どこに住んでいようとも人生は厳しいものです 養父は 僕の人生を変えようとしたのではありません でも 同じような小さな愛情ある行為が 誰かの人生を変えることもあるでしょう 一切れのパンは空腹を満たします 希望があれば パンを手に入れて 生き続けられます 自信を持って言えるのは あなたが愛情を持って行動すれば 僕と同じような境遇の人を救い そして 希望を持って生きようとしている― 何千人もの人生を変えることができます

 

ありがとうございました

 

(拍手)

 

ジョセフ ありがとうございました とても個人的で特別な話でした お姉さんと会えないまま もう10年になりますね お姉さんが 見てるかもしれません ぜひ お姉さんにメッセージをどうぞ

 

朝鮮語で?

 

まずは英語で それから朝鮮語

 

(笑)

 

分かりました 朝鮮語は無理です 朝鮮語で話すと 涙がこみ上げてきますから

 

ヌナ 別れてから もう10年が経ちました あなたに会いたい 愛しているよ 戻ってきて 生きていて それから― まだ再会する希望を捨ててないよ 僕は 自分の人生を幸せに生き 一生懸命勉強するよ 会える日まで もう泣かないって約束する (笑) 会えることをとても楽しみにしてるよ 僕を見つけられなくても 僕が あなたを探しだすよ いつか本当に会いたい 母にもメッセージをいいですか?

 

もちろん

 

お母さんと過ごした時間は短かった でも 分かっていますまだ僕を愛し まだ僕のために祈り 僕のことを思ってくれていることを ありがとう 僕をこの世に生んでくれて ありがとうございました